9月市議会定例会の最終日、「安全保障法案の廃案・撤回を求める請願」を否決することに反対討論を行いました。
でも、憲法違反の安全保障法案を支持する議員の心を突き動かすことはできませんでした。
「戦争法案」では4回目の反対討論です。次の内容です。
33番、市民ネット、布目裕喜雄です。
請願第27号安全保障関連法案の廃案を求める請願をはじめ、同趣旨で提出された請願第25号、第26号及び第28号を不採択すべきものとした総務委員会委員長報告に反対の立場で討論します。
安保法制が、7月16日衆議院本会議で強行採決されました。論議の場が参議院へ移りましたが、60日間採決されなければ、否決されたものとみなして、衆議院の3分の2で再議決されることになります。
新友会や公明党の議員から「戦争法案というのはおかしい」との声が聴こえてきます。
なぜ「戦争法案」なのかといえば、日本が直接攻撃されていないにもかかわらず、アメリカとともにアメリカの戦争を支援し、自衛隊が海外で武力行使に至る法案だからです。
国会における数の力では、戦争法案の制定を食い止めることは極めて厳しい情況にあるのかもしれません。
しかし、連日国会周辺における集会やデモ、学生のみなさんの訴えなど確実に「戦争法案反対」の声が広がっています。
権力の暴走を止めることができるのは、最後は国民の力であり、地方議会の力でもあります。それが立憲主義です。
総務委員会では、新友会、公明党の議員の皆さんはそろって「戦争はやらない大前提に立っている」と強調されました。
「二度と戦争を繰り返してはならない」との願いと決意は共有したいものだと思いますが、問題は、平和安全法制という平和の衣をまとった安保法案が、日本という国が、そして私たち国民が再び戦争に加担しないことを明確に規定するものになっているのか、ということです。
「戦後70年間、日本に戦争が無かったのは自衛隊があったから」などと、戦後史を間違って理解されているようでは、話になりません。戦後、日本が戦争に加担することがなかったのは、憲法第9条があったからにほかなりません。
戦争とは何か。
それは「自国を守るため」という大義名分でおこなわれる武力行使に他なりません。では、安保法案は、海外での自衛隊の武力行使を禁止、あるいは抑制するものになっているのか、この点をしっかりと見極めることが求められているのです。
海外での武力行使は、「限定されているのだからやむを得ない」とおっしゃるのであれば、戦争を二度と起こしてはならないという悲壮な願いとは裏腹に戦争を容認することにつながるロジックに陥っていることに、はたと気が付くべきでしょう。
改めて、戦争法案とされる安保法案の問題点を4点強調したいと思います。
一つは、集団的自衛権の行使は平和憲法のもとではできないことだということです。 これまで日本国憲法のもとでは、自衛のための戦争も含めて一切の戦争が禁止されています。交戦権も否定する日本国憲法において許されるのは、急迫不正の侵害を受けたときの必要最小限の実力行使に限定されています。
ところが昨年7月安倍首相は「存立危機事態=我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある事態」「必要最小限」「代替手段がない」といった新三要件のもとで集団的自衛権を行使することができる閣議決定をしました。
これまで違憲としてきた集団的自衛権の行使を、閣議決定で憲法解釈を変えること自体、憲法99条が定める憲法遵守義務に違反する立憲主義の否定です。
政府が、集団的自衛権は憲法違反ではないとする論拠として持ち出してきている「砂川判決」は、在日米軍の違憲性が問われたもので、集団的自衛権の行使を認めたものではありません。
「自国が攻撃を受けない限り自衛権の発動はできない」というこれまでの政府見解から、「自国が攻撃を受けていなくても自衛権の発動ができる」のですから、明白に憲法違反なのです。
二つは、後方支援といえども武力行使に他ならないということです。
国際平和支援法案や重要影響事態法案で、これまでの「後方地域支援」の概念をなくし、「現に戦闘が行われていない場所」での後方支援を行うとし、弾薬(手榴弾、ミサイルを含む)の提供、燃料の補給、あるいは核兵器であっても武器の輸送が可能であると参議院特別委員会で答弁しています。
兵站活動は武力行使と一体のものであり、後方支援といえども他国の武力行使と一体のものであり憲法違反です。イラク特措法のもとで、航空自衛隊が米兵を輸送したことについて違憲判決が出されています。
イラク復興支援特措法では、民生支援であり給水活動を行いました。最近示されたイラクでの自衛隊の活動報告によれば「迫撃砲が14発撃ち込まれた」「自衛隊員が武器を持つ市民に囲まれた」「何かあった時は撃てと指示した」「イラク市民との信頼関係を築くことができるのかという心配をした隊長がいた」といった事実が明らかになっています。「自衛隊が活動するところは非戦闘地域」と政府は説明してきましたが、実際は異なっていました。また航空自衛隊が米兵をバグダッドに輸送したことは2008年名古屋高裁で「現代戦において輸送等の補給活動もまた戦闘行為の重要な要素である…多国籍軍の戦闘行為にとって必要不可欠な軍事上の後方支援を行っている…少なくとも多国籍軍の武装兵員を,戦闘地域であるバグダッドへ空輸するものについては,他国による武力行使と一体化した行動であって,自らも武力の行使を行ったとの評価を受けざるを得ない」と「違憲判断」を示しました。
「国際紛争の解決のために武力行使はしない」日本は、海外において信頼をされてきましたが、米国の戦争支援を行うことになれば、日本国内でのテロを誘発したり、医療や民生支援をしてきた日本のNGOがテロの対象となる可能性があります。
国際貢献は中立的・人道的・民生支援に限るべきなのです。
三つに、自衛隊員の任務が拡大され、リスクが拡大するということです。
周辺事態法を改正して提出されている重要影響事態法案は、これまでの「周辺」概念がとっぱらわれ地域的概念がなくなり、自衛隊の活動範囲が地球規模になります。
武器使用基準もこれまでの正当防衛から、任務遂行のために使用ができるようになります。また、平時からの米艦などの防護を行うことになります。
自衛隊員がPKO活動や国際平和支援活動で、「国に準じた組織」と相対することが想定され、武力行使の危険があるほか、戦争ではない状態で他国の一般市民を間違って撃ってしまう危険も増します。
イラクに派遣された自衛隊員のうち26人が自殺しています。非戦闘地域における人道支援であってもストレスが相当なものであることを物語っています。
自衛隊員のリスクの高まりについて否定する安倍総理や中谷防衛大臣の答弁は、まるで自衛隊員は日本国民ではないかのようです。
国策によって自衛隊員の命が奪われかねない法案を、この国会で決めることを、私たち国民が許すのかということも同時に問われています。最終的には、私たち国民が、国策によって奪われる命の責任をとらなければなりません。その覚悟が本当にできているでしょうか。
四つに、抑止力の強化ではない安全保障環境の整備をすすめることです。 政府・自民党は「安保法制がつくられることによってすきまのない抑止力となり、より戦争は起こりにくくなる」と説明します。
軍事力によるパワーバランスに基づく抑止力論では、結局、際限のない軍拡競争を生み出すだけです。
軍事力では抑止力にはならないし、いったん戦争になれば、アフガニスタンやイラクのように無関係な市民が犠牲となるだけです。戦争では何も解決しないのです。
一国の総理大臣が国民の命と暮らしを守るために、まず考えなければならないのは、戦争が起きないようにすることです。貧困や宗教的対立を要因とする紛争の火種を除去するために人道的・民生支援を徹底するとともに、平和外交に徹することなのです。
日本の安全保障は、アメリカを基軸とした日米同盟の強化から、中国をはじめとする北東アジアを基軸とした多国間の安全保障機構の構築にシフトすることです。
さて、総務委員会では、「法案に反対というより、わかりにくいという方が多い」との発言もありました。
国民がわからないままのうちに、この安保法案が成立してよいのでしょうか。
「国民に十分に理解されていない」としながら、衆議院では強行採決されました。参議院に移り、政府の答弁は迷走を重ねています。政府流の「わかりやすい説明」がされればされるほど、「わからない」と答える国民が増え、法案に反対する国民が増えている事実を、どのように考えていらっしゃるのでしょうか。
国民がわからないまま、憲法に違反する戦争立法が行われて良いはずかありません。
せめて、「今国会にこだわらず、慎重審議を尽くす」くらいの意見書を国に提出し、市民の意見を代弁する市議会を体現すべきだったのではないですか。
戦後70年の節目の終戦・敗戦の日、8月15日、私は地元の称名寺で「非戦の鐘」を撞きました。
「非戦の鐘」は浄土真宗本願寺派の市内7カ所の寺院で取り組まれているものです。
「平和の鐘」ではなく、戦争をしないこと=「非戦の鐘」であることが大切だと考えます。
戦後70年、「戦」の「後」が限りなく続くこと、「戦」の「前」の時代にしないこと、日本という国が「非戦の国」であり続けることを、改めて訴え、反対討論とします。