私の地元・安茂里小市に太平洋戦争末期に旧海軍が造成に着手した地下壕が眠っています。当時の安茂里村村長、塚田伍八郎氏が残した『村長日記』の発見、解読を通して、旧海軍が司令部を建設するために計画された地下壕であることが推察され、戦争遺跡として後世に語り継ごうと「昭和の安茂里を語り継ぐ会」が発足、壕の保存・公開、調査研究をはじめ資料館の整備など精力的に取り組まれています。
5月15日、同会主催で、近現代史・軍事史を研究し平和教育登戸研究所資料館長を務める明治大学文学部の山田朗(あきら)教授を招き、「本土決戦における大本営と長野県」と題する講演会が催され、傾聴しました。私自身も同会の相談役に就いています。
長野の海軍部壕…横浜日吉の海軍総隊と連携する海軍中枢の移転
山田教授は、「大本営の本質からすると、陸軍だけでは構成できず、天皇の所在地に海軍の中枢機能(海軍省・軍令部)が移転する必要があったことは確かである」とし、「本土決戦における海軍中枢は日吉(神奈川県横浜市)の海軍総隊と長野の大本営海軍部(当時は設置構想)によって構成されようとしていたのではないか。安茂里小市に進出した海軍部隊は、日吉との通信連絡、大本営命令の伝達を担うことが期待されていたのではないか」との考えを明らかにしました。
旧海軍の資料から、安茂里小市の地下壕は「東京海軍通信隊第五分遣隊施設」と推察され、通信専門の「園田部隊」をはじめ、海軍第300設営隊(1945年3月からは横須賀の海軍施設地下壕建設に従事)の山本将雄隊長、浅野寛分隊長ら約1,000人が長野県入りする計画であったことが判明しています。戦後史において、山本隊長の証言として「海軍軍令部建設の極秘任務であった」との伝聞記録が残されていますが、これを裏付ける客観的資料は未発見のままだそうです。
こうした史実を踏まえ同教授は「安茂里小市の地下壕は海軍部の“芽”がつくられたものといえる。海軍部壕の全容解明はジグゾーパズルでいうとほぼ出来上がっているが、証言に伝聞が含まれ、すごく大事なところが一つ抜けている。その1ピースを見つけ出せる手伝いが私にできればと思う。旧海軍連合艦隊司令部がおかれた日吉台地下壕との関係を含め本土決戦研究の穴を探りたい」と述べ、今後の調査研究に意欲を示していただきました。
太平洋戦争末期、本土決戦への備えのため、旧陸軍が進めた天皇御座所建設を含む松代大本営地下壕工事だけでなく、旧海軍もまた司令部を長野に移転させようとしていた史実が浮き彫りになりつつあります。まさに「長野大本営」ともいうべき史実が解明されつつあるのです。
安茂里小市の大本営海軍部壕を戦争遺跡として明確に位置付け、さらなる調査研究、保存・公開を進める重要性がますます高まっているといえるでしょう。
安茂里小市に残る「大本営海軍部壕」の概要
以下は、昭和の安茂里を語り継ぐ会がクラウドファンディングに取り組んだ際に、「CF信州」に掲載した安茂里小市海軍部壕の説明文です。よくまとめられているので転載します。
始まりは1冊の日記を介した出会い
長野市安茂里小市で生まれ育った地元をこよなく愛する住民と、松代大本営(長野市松代)の調査研究に30年以上携わってきた教員が、アジア・太平洋戦争末期の安茂里村村長が書いた「自由日記」を介して出会い、そこに記されていた事柄を解明する取り組みを進めてきました。そして2020年初夏に志を一にする”民”が集い、「昭和の安茂里を語り継ぐ会(以下『当会』)」が誕生したのです。
▼安茂里村長塚田伍八郎氏が書いた「自由日記」
謎多き地下壕と「自由日記」に記されていた驚愕の史実とは…?
安茂里に地下壕が存在することは住民の多くが知っていました。「子供のころ、地下壕を遊び場にしていた」と話す方もいます。聞き取り調査を進めると、どうやら終戦直前に海軍が安茂里の地にやってきてこの地下壕を掘削したらしいことがわかってきました。
地下壕の謎を探るため戦争の各種資料が集まっている防衛省防衛研究所に尋ねたり、地元の図書館等にある諸文献を読み漁ってみたりしましたが、決め手となる手がかりは掴めませんでした。
公式な資料が出てこない理由はおそらく、海軍にとって地下壕の掘削事業が極秘中の極秘であったため、終戦と同時に関連資料がことごとく焼却されたからだと考えられます。
調査が行き詰る中、地元の民家から発見された「自由日記」が光明をもたらします。「自由日記」には、地下壕を掘った海軍第300設営隊のことの他に、謎の部隊「海軍通信隊薗田部隊」が作戦行動をしていたことなど、これまで明らかにされていなかった史実が克明に記されていました。
そして一つの仮説に辿り着きます。
戦争末期、陸軍は「本土決戦を叫び戦争の継続を強く推していた」のに対し、海軍は「出来るだけ早い講和を望んでいた」といういわゆる陸軍悪玉、海軍善玉論が一般的には日本史の通説と言われています。
しかし「自由日記」の調査・解明により「本土決戦を叫んでいた陸軍に呼応して、海軍も極秘の命令を帯びた優秀な部隊『海軍通信隊薗田部隊』を長野に派遣し、実は本土決戦に向けた作戦を進めていた」という仮説に至りました。
当会は「この仮説が正しければ、終戦前後の日本史を書き換えることにもなるのではないか」という思いを強くしており、この地下壕を「大本営海軍部壕」と呼ぶことにしました。
大本営海軍部壕の掘削工事
終戦直前の昭和20年6月、海軍第300設営隊の先遣隊が安茂里の地に突如現れ、翌7月には壕の掘削工事を始めたのです。ところが延べ100mほど掘削したところで終戦を迎え、同隊は撤収していきました。
▼大本営海軍部壕の内部調査図
大本営海軍部壕のいま
当会メンバーの記憶によると「昔は奥まで入ることができた」とのことですが、現在では壕の入り口に土砂が堆積し入るにも一苦労で、さらに入口から20m付近が崩落しそれより奥を知ることができない状況となっています。
史実を明らかにし後世に伝承するため、壕の修復・整備により安全を確保し壕内の見学ができるようにする必要があるとの思いを強めています。
▼大本営海軍部壕の入り口付近。経年により土砂が堆積し大部分が埋没
▼未だ多くの謎が多く残る大本営海軍部壕の現在の様子
▼壕内調査の様子
▼壕内調査の様子
▼壕内崩落地点。これ以上奥には進めない
当会のこれまでの活動
荒れ果てた入り口を整備し各種案内看板を設置して、戦後75年目となる2020年8月15日、地元松ヶ丘小学校親子見学会を開催しました。これを皮切りに地元住民、一般希望者などに向けた見学会を複数回開催してきました。
▼親子見学会を開催
▼見学会の様子
見学会に参加した方々からは「少しでもいいから壕の中に入ってみたい」との強い希望も寄せられました。そこで内部調査を実施して崩落地点までは何とか進めることが確かめられましたが、一般の見学者が入ることができるようにするためにはしっかりとした安全確保・整備が必要です。
また周辺の民家に残されていた海軍の鉄カブト、食器、毛布、布製バケツや、壕の補強用に使われた厚い板、工具らしき物などを陳列・展示をし、大本営海軍部壕について学べる「海軍部壕資料館」も2021年8月15日のオープンを目指して準備しています。
過去から現在、そして未来へ
当会は戦争が生み出したこの遺産を後世に語り継ぎ、もっと多くの方々に戦争の愚かさ・無謀さを伝えたい、今の平和な世を幸せに感じてほしい、そう強く思っています。
これまでメンバーの手弁当で活動してきましたが、これからの取り組みにはかなりの資金が必要です。
日本史の新たな説を確かなものにするためには皆様方のご支援・ご協力が必要です。
当会はご一緒して下さる方、協力して下さる方を求めています。勿論会に加わっていただける方は大歓迎です。
どうか宜しくお願い申し上げます。
「昭和の安茂里を語り継ぐ会」役員メンバー紹介
共同代表 塚田武司 ふとん店店主、元小市区長
岡村元一 自営業、長年の郷土史家
事務局長 土屋光男 元高校教頭、38年間大本営などを研究
▼会の主要メンバー(総勢13名)
当会メンバーは、この地で生まれ育った者の責務として未解明の歴史を掘り起こし後世に伝えようとしています。そして資料館を設けて、平和とは何かを考えながら、ささやかな幸せを分かち合う場所にもしたいと夢見ています。