応急仮設住宅への入居が始まった12月1日。自主避難所・豊野北公民館に避難していたKさん(79歳)の若槻団地運動広場仮設住宅への引っ越しを手伝い。(報道では本名で紹介されていますが、このブログではイニシャルとします)
Kさんは市営住宅・沖団地で1階天井まで浸水、2階から消防局のボートに救出され、避難所に。奥さんを4年前に亡くし、お子さんも兄弟との行き来もなく、本人曰く「天涯孤独」の一人暮らしです。
50日ぶりの新たな「我が家」、仮設住宅に落ち着いたKさんは、積もる土砂の中から探し出した奥さんの遺影と位牌を机に並べ、「引っ越しできてうれしい。一安心。やっと落ち着く」と安堵の笑みを浮かべながらも、「でも仮設住宅の期限である2年後のことを考えると、どうしたらいいか…。豊野に帰りたいんだけどな…」と将来不安を語ります。
Kさんは、市営住宅の土砂や家財の片付けが終わった後も毎日、住宅に歩いて通い、電気も暖房もない2階で30分から1時間くらい休むことを日課にしてきました。「あそこが一番休まるんだ…」とKさん。やるせないです。
66世帯が入居していた市営住宅・豊野沖団地は「全壊」で解体の方針は決まっていますが、その後の再建の見通しがまだ明らかになっていません。
豊野北公民館では11月30日までに7世帯がみなし仮設住宅(アパート等)への移動が終わり、避難所閉鎖の月末を超えて唯一人残ることになったKさんは、体調が優れないこともあって、30日の夜は一緒に避難所泊りに。
「一緒に晩御飯を」と待ってくれていたKさんと一緒に、豊野区の奉仕団の皆さんに作っていただいた炊き込みご飯と豚汁をいただき、改めて、若かりし頃の武勇伝、亡くなった奥さんのこと、発災時の避難のこと、仮設住宅で始まるこれからの生活のことなどなど話しながら段ボールベッドにつきました。
レスキュー・ストックヤードの外部支援で29日朝までは宿泊体制がありましたが、外部支援の終了に伴い、29日夜は豊野区・区長さんに泊りをお願いし、30日夜は私がかってでたところです。
市側からは指定避難所である豊野西小学校へ一泊だけ移動することが提案されましたが、本人は気が進まず、自主避難所の一日延長を申し出て、何とかなったものです。
1日は朝から北公民館で使用してきた段ボールベッドなどを片付け掃除し、10時に仮設住宅の鍵引き渡しの説明会に一緒に参加。再び、豊野に戻り、引っ越し支援をお願いした私の友人2人と、北公民館と市営住宅・沖団地で必要な荷物を詰め込み、若槻団地の仮設住宅へ。
意外な荷物が「ボートの船外機エンジン」、しかも2機。釣りが趣味だったそうで、ボートは流され災害ゴミで処理されてしまったようです。
沖団地2階で水に漬かなかったタンスなどの積み込みに手間取り、仮設住宅で落ち着いたのは午後2時半頃となってしまいました。
当初は高齢一人暮らしのため「要支援1K」の住宅を申し込みましたが、市側からバリアフリー対応の「2DK」への入居を斡旋され受け入れた経過があります。「1K」に設置されている緊急通報装置(室内ボタンで玄関横の警告灯が点灯する仕組み)がないことが難点ですが、有料の緊急通報システムの利用を考えるか、対応が必要となります。本人は「いらない」と言っているのですが…。
今日の信濃毎日新聞に、Kさんの仮設住宅への引っ越し・入居の様子が特集記事で報じられていますが、同行取材していた信毎やSBC、ABNの記者の皆さんの手も借りることに…。ありがとうございました。
Kさんは車が流されて廃車の手続き中。移動手段がないため、買い物や通院が課題となっています。中古の軽自動車を購入するか、電動自転車を購入するか迷っているところです。
私は、免許証を返納し、電動の三輪自転車(こけないため)を進めているのですが、すんなりと応じる気配はありません。
当面、買い出し支援や通院支援を継続する予定です。
仮住まいでの新たな生活のスタートが、時限付きとはいえ、新しいコミュニティの形成と相まって支えあう地域力に包まれ、安定と安心につながることを願うばかりです。
今日も仮設住宅に顔を出してきましたが、2日午前中には届くと連絡があった非課税世帯に支給される電気製品が届かず状態です。布団に横になっていましたが、具合がよさそうで何よりです。
話は変わりますが、仮設住宅での板張りのスロープや廊下部分が滑りやすい状態で、1日朝も霜が降り滑る状態でした。溝を切る加工がされているのですが効果はないようです。居合わせた住宅課長に速やかな改善を要請しました。