12月22日午後7時15分、父・喜知治が他界しました。享年99歳。
実家の富山で24日に通夜、25日に葬儀を営みました。
釧路在住の兄夫婦が富山に帰っている折で、ショートスティの施設介護から在宅での夕食中に、冬至ということで用意いただいたカボチャを喉に詰まらせたようです。すぐに除去したものの、意識不明が続き、救急隊の蘇生の甲斐なく永眠となりました。
22日は午後から、社民党北信越ブロックの会議で直江津におり、会議を終え長野に帰る途中で、兄から「意識が戻らず、難しい情況」との一報が届き、30分後に「臨終を確認」との報を受けることなりました。
明けて23日、実家に向かい、父と対面。最後を看取ることはできませんでしたが、とても穏やかな表情で、「お疲れさまでした。ありがとう」と親父の人生を労った処です。
今年の夏、昨年11月に亡くなった母の一周忌に合わせ、孫や曾孫に囲まれ、元気に「白寿」のお祝いをしたばかりで、突然の他界は正直ショックです。
「次は100歳だね」との励ましに微笑んで頷いていた父の姿が忘れられません。
父は、戦後、樺太から引き揚げ、北海道の釧路を根城に、家庭薬配置業、いわゆる「富山の売薬」を「布目一プク堂」として立ち上げ、一代を築いた苦労人です。仕事柄、父が富山に帰るのはお盆と正月だけで、いわば「母子家庭」のような環境で私は育ちました。
「為せば成る。為さねば成らぬ何事も。成らぬは人の為さぬなりけり」をモットーとする厳しい父親でした。
私が高校3年生の時に、仕事中の交通事故で脳挫傷による記憶喪失を患い、部分的に記憶は回復したものの、全ては戻らぬまま、年を重ねることに。
でも、大学卒業後の私の政治活動をずっと応援してくれた、かけがえのない存在でした。
昨年11月の母の逝去、そして義母の逝去から1年余、度重なる弔いに、天寿とはいえ、寂しい限りです。喪失感が募ります。
23日・24日の連休に、年賀状を作る予定でしたが、叶わぬまま、新しい年を迎えることとなります。
喪中となり、新年のご挨拶を失礼いたしますこと、ブログ上からお知らせいたします。