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06年11月16日記
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教育基本法の「改正」、肝心の国民・子どもが置き去りにされている


 11月15日、教育基本法の改正案が衆議院特別委員会で、与党の単独採決により可決され、本日16日、衆議院本会議でも与党だけで法案の可決を強行した。日本国憲法と双子のきょうだいともいわれ、「教育の憲法」としての地位を確立してきた教育基本法を「改正」しようとする政府法案の論点や問題点はまだまだ山積しているのではないだろうか。いじめや自殺、未履修問題など、教育現場や子どもの状況について重大な問題が頻発している。世論調査でも6割を超える国民が「今国会にこだわらず慎重に十分議論すべき」としているにもかかわらず、与党だけで採決したことに、強く抗議したい。

 加えて、政府主催のタウンミーティングにおいて、やらせ発言や政府関係者の動員問題、さらには事前に用意していたいわゆるサクラの質問者に税金で謝礼を支払っていたことも明らかになっている。偽装された民意が「改正」の根拠にされたのでたまったものではない。肝心の国民が置き去りにされている。許し難いといわざるを得ない。

 学校や教育に問題が多いことは間違いない。しかし、多発する少年事件、いじめや自殺、不登校など子どもや学校をめぐる問題は教育基本法のせいで起きているのだろうか。法律を変えれば、良くなるのだろうか。さらに突っ込めば、「愛国心」を押し付けることで解決するのだろうか。国や教育委員会が現場への管理や統制を強めることで改善するんだろうか。こうした基本的で本質的な議論は深まっていないのである。まさに、ごり押しの改悪に他ならない。

 安部首相は、「愛国心」の教え方について、日本の伝統・文化を学ぶ姿勢や態度を評価対象とする考えを示している。小泉前首相ですら「愛国心が身についたかどうかを成績として評価することは必要ない」としていたのにである。これでは、確実に愛国心を子どもたちに競わせることにつながってしまう。かつての戦前教育の復活だと危険視するのは、私だけではない。

 教育基本法は今から60年前、国民主権、基本的人権の尊重、戦争放棄・恒久平和を柱とした日本国憲法の理想を実現するため、一人ひとりが主権者となって、みんなで世界中から尊敬される国をつくろう!と制定された。「改正案」では「真理と平和を希求」が「真理と正義を愛し」に書き換えられ、「公共の精神」や「伝統の継承」が新たに盛り込まれた。「平和の希求」が削られ、「個人の尊厳」が「公共の精神」に置き換えられた。そして「わが国と郷土を愛する態度を養う」ことが教育の目標とされた。「戦争のできる国」にしようとする憲法の改悪と機を一にして、「お上の言うがまま」の子どもたちをつくろうとする危険な企てに他ならない。

 信濃毎日新聞の報道によれば、15日に開かれた中央公聴会で日本大学の広田照幸教授が、「改正案」が多くの道徳的な教育目標を掲げていることで「個性に合わせた教育ができない窮屈な学校になる心配がある。規範意識を教えれば、教育が良くなるわけではない」と主張。法律で理念を変えるよりも、教育予算を増やし、現場にゆとりを持たせることが必要だと訴えたそうである。その通りであると思う。

 教育基本法が悪いのではない。基本法の理念を邪魔とする政治の営みが悪いのだ。教育基本法を活かしてこそ、子どもたちが大切にされる教育が実現できると確信する。あきらめないで、しっかりと声をあげたい。


名古屋公聴会での東京大学・高橋哲哉教授の意見を掲載します
保坂展人・衆議院議員のホームページから拝借しました。ご一読ください。


         「名古屋市公聴会における意見陳述」     高橋哲哉

■なぜ、いま「改正」なのか?
 私は政府提出の教育基本法案に反対する立場から、私見を述べさせていただきます。 安倍晋三首相は、今臨時国会の最大の課題にこの教育基本法改正を掲げておりますが、今なぜ現行法を改正しなければならないのか、その理由は今もって不明です。教育に関する基本法の改正であれば、本来、児童・生徒、教職員、保護者など教育現場の当事者たちから求められ、その必要に応じて行なわれるのが筋ですが、今回はそうではありません。最近発表された東京大学基礎学力研究センターの調査でも、全国の公立小中学校の校長の66%が教育基本法改正に反対という結果が出ています。今回の教育基本法改正は教育的理由からではなく、政治的意図から出ている点に大きな問題があります。

■教育基本法は占領軍の押し付けではない

 安倍首相は、「戦後体制(レジーム)からの脱却」という政権課題の柱の一つとして教育基本法改正を掲げ、「占領時代の残滓を払拭することが必要です。占領時代につくられた教育基本法、憲法をつくりかえていくこと、それは精神的にも占領を終わらせることになる」(『自由新報』05年1月4・11日号)などと主張しています。しかし、教育基本法があたかも占領軍の押し付けによって生まれたかのようなこの議論は、根拠のない偏見にすぎません。

 私はここで、教育基本法の生みの親に当たる政治哲学者、南原繁が1955年に書いた「日本における教育改革」(『南原繁著作集・第8巻』)という文章を、安倍首相のみならず、政府案に賛成するすべての皆さんにぜひ読んでいただきたいと思います。

南原繁は、東京帝国大学の最後の総長、新制東京大学の初代の総長であり、当時貴族院議員を兼務し、「教育刷新委員会」委員長として教育基本法案作定の中心人物でありました。南原はこの文章で、教育基本法が「アメリカの強要によってつくられたものであるという臆説」が流布されており、「一部の人たちの間には、日本が独立した今日、われわれの手によって自主的に再改革をなすべきであるという意見となって現われている」が、これは「著しく真実を誤ったか、あるいは強いて偽った論議といわなければならない」と断じています。南原によれば、教育刷新委員会の六年間、「一回も総司令部から指令や強制を受けたことはなかった」のであり、教育基本法もこの委員会で当時の日本の指導的知識人たちが徹底した議論を行なってつくりあげられたものなのです。

安倍首相の、「教育基本法は占領時代の残滓だからつくりかえねばならない」という主張は、すでに50年前、南原によって、「著しく真実を誤ったか、あるいは強いて偽った論議」として斥けられたものにほかなりません。

■新制東大初代総長・南原繁

南原によれば、教育基本法の根本理念は、「われわれが国民たる前に、ひとりびとりが人間としての自律」(ママ)にあります。教育の目的が「人格の完成」に置かれているのは、「国家の権力といえどももはや侵すことのできない自由の主体としての人間人格の尊厳」が中心にあるからです。これは、安倍首相が「教育の目的」を「品格ある国家をつくることだ」と言って、「国家のための教育」を打ち出しているのと反対です。

ここから南原は、国家を頂点とする教育行政権力の役割を教育条件の整備に限定し、「不当な支配」を禁止した現行法第10条の意義を強調します。「戦前長い間、小学校から大学に至るまで、文部省の完全な統制下にあり、中央集権主義と官僚的統制は、わが国教育行政の二大特色であった」。したがって、教育をそこから解放して自由清新の雰囲気をつくり出すためには、「まず文部省が、これまでのごとき教育方針や内容について指示する代わりに、教育者の自主的精神を尊重し、むしろ教育者の自由を守り、さらに教育のため広汎な財政上あるいは技術上の援助奉仕に当たるという性格転換を行なったことは、特記されなければならない」。

■「人格形成」から「国家のための教育」へ

ところが政府法案では、現行法第10条の教育行政の役割限定の部分が削除され、さらに教育が「国民全体に対し直接責任を負って行なわれるべきものである」という部分も削除されて、教育は「国」と「地方公共団体」の「教育行政」が、「この法律及び他の法律の定めるところにより」行なうべきものとなっています(第16条)。第17条の「教育振興基本計画」と相まって、教育の主体をこの国の主権者である「国民」から「国家」へと変えてしまう改正案です。政府法案では、教育の主体と教育の目的も国家になる。国家による国家のための教育、国家の道具としての教育をつくりだそうとする法案だと言わざるをえません。

法案の第2条「教育の目標」に「愛国心」が入ったのも、この枠組みの中にあります。安倍首相は一貫して教育基本法に「愛国心」を入れたいと言ってきましたが、その安倍氏が「国が危機に瀕したときに命を捧げるという人がいなければ、この国は成り立っていかない」(20041127日)と述べていることは何を意味するのでしょうか。

戦後の日本政府が教育と愛国心を初めて結びつけたのは、1953年の池田勇人・ロバートソン会談のときでした。朝鮮戦争後の日本の再武装に当たって、日本国民の間に「防衛のための自主的精神」を育てるために、「教育と広報」によって「愛国心」を養う必要があるとされたのでした。今回も、六年の任期中に憲法9条を変えて「自衛軍」を保持し、集団的自衛権の行使を認めていこうという安倍首相の下で、教育基本法に「愛国心」が入れられようとしているのは偶然ではありません。

■安部首相…「国家のために身を投げ出してもかまわない日本人を生み出す」ことが目的

安倍首相の認識は、「お国のために命を投げ出しても構わない日本人を生み出す。(教育基本法改正の目的は)これに尽きる」と述べた西村眞吾議員の認識と同じです。国家が愛国心をはじめ多数の道徳規範を「教育の目標」として定めた法案第2条は、21世紀の教育勅語とも言うべき趣があり、それによってこの法律は、「国家道徳洗脳基本法」と称されても仕方のないものになってしまうでしょう。

南原は、1955年に、こうした動きに明確に反対していました。「近年、わが国の政治は不幸にして、一旦定めた民族の新しい進路から、いつの間にか離れて、反対の方向に動きつつある。その間、教育の分野においても、戦後に性格転換を遂げた筈の文部省が、ふたたび往年の権威を取り戻そうとする傾向はないか。新しく設けられた地方教育委員会すら、これと結びついて、文部省の連絡機関となる惧れはないか。[~]全国多数のまじめな教師の間に、自由や平和がおのずからタブーとなりつつある事実は、何を語るか。[~]このような状況のもとで、その意識していると否とを問わず、ふたたび「国家道徳」や「愛国精神」を強調することが、いかなる意味と役割をもつものであるかは、およそ明らかであろう」。

■現行教育基本法の理念によってこそ愛国心は呼び起こされる(南原繁)

じつは南原は、「国家道徳」や「愛国精神」によってではなく、現行の教育基本法の理念によってこそ、真理と正義、自由と平和を希求する「真の愛国心」が呼び起こされる、と考えていました。そして、次のように述べていました。

「新しく定められた教育理念に、いささかの誤りもない。今後、いかなる反動の嵐の時代が訪れようとも、何人も教育基本法の精神を根本的に書き換えることはできないであろう。なぜならば、それは真理であり、これを否定するのは歴史の流れをせき止めようとするに等しい」。

政府提出の教育基本法案は、現行法の精神をまさに「根本から書き換え」ようとしています。主権者である「国民」による「子どもたち」のための教育を、「国家」による「国家」のための教育に変えようとするものです。私たちは、「いかなる反動の嵐が訪れようとも、何人も教育基本法の精神を根本的に書き換えることはできないであろう」と南原繁が述べた意味を、よくよく考え直してみる必要があります。教育は国家の道具ではありません。子どもたちも国家の道具ではありません。私は、教育と子どもたちを国家の道具にしてしまいかねない政府法案に反対します。



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